世羅修造

戊辰戦争の開戦前、福島県内(合併前)は会津が戦力の中心だったが、幕末当時の福島

藩は3万石の小藩だった。慶応2年(1868年)、長州藩士世羅修造暗殺事件が起きて、それが引き金になって戊辰戦争が始まったと言われる。『世羅が好きな福島人はいないだろうと』言われているらしい。新政府軍の奥羽鎮撫総督参謀として、会津藩との和平を求める仙台藩に対しても横暴な振る舞いを繰り返し、「其見ゲ果手タル呆気ニコソ、左様ノモノ共ノ主人モ略知レタルモノナリ、所詮、奥羽ニハ目鼻ノ名タル者ハ見当足らず。奥羽皆敵ト見テ逆撃之大策ニ至度候二付キ…云々」と仙台藩士を嘲り、傍若無人などをとり、仙台藩にあくまで武力討伐の姿勢をとり、会津救済の可能性は失われた。

「世羅」は憤激した仙台藩士(黒烏隊と言われている)などに福島の城下『金澤屋』にて襲われ瀕死の重傷を負い、阿武隈川で斬首され、遺体は阿武隈川に投げ捨てられた。

現在は、「世羅」の墓は福島市の稲荷神社の北東にひっそりと建立されている他戊辰の役戦没者として信夫山の護国神社にも祀られている。(地元の長州にも「英雄」として祀られているという話だが私は見たことがない)

福島歴史資料館で、「金澤屋」は明治病院(福島市北町)の側にあったと分かったが斬首の場所は分からない。

これが、戊辰戦争の始まりと言われているらしいが、近代の福島の歴史を少しづつ調べるのも面白い。会津では今でも「薩長土肥」と呼んでいる。   以上